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プロフィール

荒木健一 (あらきけんいち)

1978(昭和53)年3月26日生

栃木県鹿沼市生まれ、群馬県高崎市出身


高崎市立の小学校、中学校を卒業後、市内の私立高校に進学するも、人間関係などに悩み、その後ひきこもる。高1の3月に中退。

1年間ひきこもったのちに、何かきっかけを得たいと両親の援助を借り、上京。

定時制高校に進み、卒業後、1998年、2年余計に年を重ねたときに文教大学人間科学部臨床心理学科へ進学。在学中、2年次では一般旅行業務取扱主任者(現総合旅行業務取扱管理者)、3年次には宅地建物取引主任者、4年次では社会保険労務士の各試験に合格。

2002年卒業後、株式会社帝国ホテルに就職。3か月ちょっと上高地帝国ホテルにて客室担当(ハウスキーパー業務)の「研修」の後に、不動産事業部に配属となり、ビルやブティック、料飲店の賃貸テナント管理業務に就く。

その業務を3年経過したのち、大学時代に取得した社会保険労務士の資格の仕事をしたいと、社会保険労務士事務所に転職。3年弱勤務のうえ、その後、2社の企業に人事業務担当として転職。2つ目の企業でハードワークがたたり、心身ともに体を壊してしまい、3か月弱で退職、その後療養。

半年ほどの期間後、会計事務所の社会保険労務士部門立ち上げとして、就職。開業社会保険労務士として登録し、2年間勤務。

2012年9月、荒木キャリア・労務研究所を開設し、代表として現在に至る。

保有資格

・普通自動車免許第一種取得(1996年10月)
・JAFモータースポーツ国内A級ライセンス取得(1998年8月)
・総合旅行業務取扱管理者(旧一般旅行業務取扱主任者)試験合格(1999年11月)
・宅地建物取引主任者登録(2001年9月)
・銀行業務検定年金アドバイザー3級合格(2002年3月)
・認定心理士登録(2002年4月)
・甲種防火管理者資格取得(2002年9月)
・社会保険労務士登録(2002年10月)
・ビジネス実務法務検定2級合格(2004年12月)
・産業カウンセラー試験合格・登録(2007年4月)
・キャリア・コンサルタント試験合格(2007年11月)
・心理相談員資格取得(2008年11月)
・ビジネス・キャリア検定試験労務管理3級合格(2008年11月)
・メンタルヘルスマネジメント検定2種合格(2009年4月)
・潜水士(2009年11月)
・衛生工学衛生管理者免許取得(2010年2月)
 

生い立ち(学生編)

出生から最初の大きな挫折

栃木県鹿沼市の母の実家で出生し、3歳頃まで埼玉県さいたま市(旧大宮市)、その後群馬県高崎市で暮らす(旧大宮市での記憶がなく、出身地は群馬と思っています)。


小学校は高崎市立城東小学校、小2の頃に同市立倉賀野小学校へ転校する。


ちなみに、城東小学校は歌手の布袋寅泰さん、倉賀野小学校はこれまた歌手の氷室京介の出身校であり、BOOWYの両巨頭の出身校を抑えていることが、ちょっとした自慢…。


その後、高崎市立倉賀野中学校(氷室さん以外にも画家の星野富弘さんや故山田かまちさんもこの学校の関係した方です)卒業後、東京農業大学第二高等学校へ進学するが、高1の2学期から不登校に入り、最終的に翌年3月に中退する。


原因は中学2年ころから自分への自信喪失。体育が苦手だったので、球技大会などはいわゆる「ウィークポイント」とされ、足を引っ張りその後自分に自信を無くし、思春期の頃も重なって、人間関係を構築する難しさを感じ、だんだん自暴自棄になっていった。ただ、臆病な性格なので暴走族などに入ることなく、ひきこもりを経験(このころ、不登校やひきこもりがマスコミに取り上げられるようになった。いわば、カッコよく言えばパイオニア?)。ひきこもりの頃は常に自殺願望あり。しかし、気の弱さが功を奏した(?)のか、リストカットすらできず。しかし、ちょうど路上生活者の問題がマスコミで取り上げられたのをテレビで見て「俺も果てはこうなるんだ」と常に絶望感を持つ日々を過ごす。


約1年のひきこもり、および家庭内暴力をした後、何かきっかけが欲しいと両親の経済的支援を借りて上京。東京なら群馬と違って近所の目を気にすることなく紛れ込むことができるから、また引きこもったときに興味を持ったプロレス(特に全日本プロレス。四天王時代、と言ってわかる方は私と一緒、プロレスファン!)を会場で見ることができるからということが大きな理由。


その後、旧大宮市内の定時制高校、埼玉県立大宮中央高等学校に進学する。卒業はしたものの、人間関係の作り方は分からないまま、一匹狼として校内に一人も友人といえる者も作ることができなかった。そのかわり、コンビニエンスストアのアルバイトに打ち込む。勿論、コンビニの同僚の方とはほとんど会話らしい会話はできなかったが、この経験が社会へ出ることができる自信が徐々に芽生え始める。また、勤務地が東京都中央区茅場町という、山一證券があった場所で勤務していたので、スーツ組の社会人に紛れながら通勤したりすることが、なんとなく「中退せずに、普通に群馬の高校行っていたらこんな経験できなかっただろうな」という思いが、特殊な環境に置かれていることを感じさせ、「自分は自分」という気持ちも生まれてきた。ちなみに、このコンビニ在籍中に、山一證券は破たん。何となく、この頃から「世の中どうなるかわからない」と思うようになる。


高校卒業の進学、しかし人間関係の構築はうまくいかず…

高3年次の頃、どうするか悩んでいたが、就職する度胸はなく、中退前の当初の目標である大学進学に舵を向ける。自身の経験から、「社会学や心理学を勉強してみたい。そして過去の経験が、自分以外の他の方を救うことができる仕事で生きていければ」と思い、社会学や心理学を中心とした大学を受験。本当は関西の有名私立大学の2部にて働きながら、夜間主の大学に行こうと思っていたが(関東にてずっと過ごしていたので、関西に憧れを抱いたころでもあった。関東では今まで述べたような経験であまりいいとは思えなかったので、思い切ってまた生活環境を変えたいと思っていた)不合格。


 そんななかであってもその他の大学は合格したが、そのうち文教大学人間科学部臨床心理学科に合格し入学。心理学を学べるという点も選んだ理由だが、一番の理由はこの学科が1期生であったこと。自分と同い年の方が先輩としているのは余計にやりづらい、それならば先輩のいない学科でなら何とかやっていけるのでは、と思い選択。


 文教大学に入学したものの、当時未だ人間関係の構築に悩みまたも一匹狼に。高校は定時制だったので、ある意味個々人勝手にやっても特に問題はないが、大学ではクラス制度であったので、自分にとっては「中退前の高校、中学校と同じクラスでの生活はつらい」と思うようになり、また、退学したい虫が疼きだす。この虫は大学2年の前期まで続く。しかし、このような状況からようやく脱出できる機会がこの大学在学時に出会うことになる。

「居場所」を見つけ徐々に人間関係の作り方がわかるようになってくる

大学を辞めたい、辞めたいと思っていた入学後の大学1年生、高校時代にしていたアルバイトを思い出し、アルバイトで何かしていたいと思い、そこで巡り合ったのがキヨスクの販売員のアルバイト。当時キヨスクはレジを使わず、暗算ですぐ計算して、料金を算出する(現在は首都圏のキヨスクは電子マネー普及のため、レジを使っているようだが。私にとっては暗算をしないキヨスクは「邪道」だと少し思っている)。私も、小学校時代珠算教室にて暗算を学んだので、それが活かせると思い池袋駅のキヨスクにて学生アルバイトとして入社。しかし、案の定、人間関係の構築が苦手なので同僚の学生アルバイトおよび同世代の女性のキヨスク社員の方とあまり馴染めず。ほどほどの付き合いをしていたが(自分自身としては結構頑張っていたが)、すぐに池袋から2駅離れた巣鴨駅のキヨスクのアルバイトにヘルプとして入っていたら、いつの間にかそこが「定住」の場所に。自分自身も他の学生アルバイトと人間関係で悩む前に、一人のびのびとやれるならそこがいいと思い勤務。ところが、その巣鴨のキヨスク店舗には同世代(学年では1つ下)の女性社員の方が勤務。同世代には苦手な私は、どのように付き合えば分らず、お互い苦手だなあ(私自身が勝手にそう思っていたのだが)、と思い悩む。しかし、その女性社員以外の方がいろいろ話しかけてくれたりしていることで、その方以外と仕事をしているときは、そんなに思い悩むことはなかった。


 その中で、あるきっかけが私を変えることになる。大学2年次の4月に勤めていた巣鴨駅のキヨスクで人事異動があり、よく話しかけていただく男性社員の方と、苦手だなあと思い込んでいた女性社員以外が異動し、新たに3名の方が配置されてきた。これをきっかけに、新たに来た社員の方は前から在籍していた私にいろいろアドバイスを求めたりしてきた(3人のうち2人が同郷出身として話が合うのもあり)。勿論、もともといた男性社員の方も以前同様、いやそれ以上に私にアドバイスを求めてくるなど頼りにしてくれていた。


 その中で、一番大きかったのは同世代の女性社員との仕事。今まで必要以上に話をしなかったのが、人事異動をきっかけにいろいろ話しかけてくれるようになってきた。話をするうちに、どんどんこの巣鴨のキヨスクをどうしたらもっと良くすることができるか、など話し合ったりすることによってどんどん親しくなることができた。おそらく彼女は最初、大学生のアルバイトでいわゆる「腰掛」みたいなものだろう、と思っていたのかもしれないが、私の仕事ぶりを見てだんだんと信頼してくれるようになってきたのではと思う。


 この経験が私に「居場所」を見つけさせてくれたのだと思う。「居場所」とは、ここにいていいんだ。ここで頑張っていいんだ。お互い信頼しあう場が私にもできたんだ。自分に自信を持っていいんだ。ということを感じさせる場である。この「居場所」を見つけられることができたことが、中学生から長年人間関係で悩んでいた「モヤモヤの時代」から脱出できる機会であった。


 その当時、大学2年次にて大学の講義に出ても、大学に行く意味を見出すことができず、大学2年前期はあえてほとんどの講座に出席せず、キヨスクのアルバイトに時間を費やすことにした。これが功を奏し、大学でのストレスをあえて感じることのない環境に置くことによって、そして自分が信頼されるキヨスクのアルバイトに気持ちを専念することによって、徐々に自分自身に「生きていることの充実感」を感じることができ、常に何かから逃げたい気持ちを抱いていた自分から脱皮できるようになっていった。

資格への興味を抱いたきっかけ

大学2年次前期はこのように大学の講義をほとんど受けない環境に置いたのだが、そうするとやはり時間を持て余すようになる。そこで、今後就職のために資格でも勉強してみるかなと、資格に興味を持つようになる。


 資格といえば、心理学に関する資格として「臨床心理士」というものがある。勿論、入学当初は私自身もその資格を取得して、過去のつらかった経験を活かしながら、卒業後は生計を立てられれば、と思っていたが、大学の初っ端の講義で「臨床心理士になっても、30、40歳になっても家族を養っていくのは困難だぞ」と言われ、上京してからずっと両親の援助を受けている自分にとっては、今後も両親に迷惑をかけるのは忍びないと思い、臨床心理士の資格を狙うこと辞め、大学卒業後は民間企業に就職できればと思い直した経験がある。その就職、ちょうどそのころは「氷河期」(今と違ったものであったと思う)と呼ばれていた時代なので、ただ就職活動しただけでは卒業しても就職できていないのでは、と思い、この思いが資格取得へと駆り立てたのだろうと思う。


 また、資格取得へ駆り立てる他の要因としては、高校を中退し、この経験が前に述べた「このままでは路上生活者になるのが私の人生」感じた危機感、つまり人生に資格という「保険」をかけておきたい、という思いもあったからだろうと思う。調理師や大工のように「技術」を身につけ手に職をつけるのは、私にとって無理だなと思っていたので(図工や家庭科、美術などは作品など完成させた達成感を味わうことがほとんどなかったので)、「勉強」して得られる資格なら、自分でもできるかな、と思っていた。


 資格といっても世の中たくさんある。その中で、私は旅行が大好きで、大学1年次には中国、四国、九州地方を車で2週間ほどかけてドライブ旅行したり(大学2年次は東北、北海道を回り、大学2年次で沖縄以外は全部車で走破するなどのドライブ旅行好き)、青春18きっぷを使って旅行したりなど国内旅行が大好きなので、旅行会社に勤務できれば楽しいのでは、と当時思い(実際就職活動していくうちに旅行会社の営業の仕事にはあまり就きたくはないなと思うのだが)、国内、および一般旅行業務取扱主任者資格を狙うことになる。これが、「資格マニア」なるきっかけ。

アルバイトも順調。資格を次々と取得でき、社会保険労務士の試験を目指す

両旅行業務主任者は旅行が好きだからなのか、はてまた通っていた資格の予備校の講師の教え方がよかったのか、一回の試験で共に合格。この資格を学ぶ上で、科目の「旅行業法」、「約款(旅行会社と顧客との取り決めの内容)」に触れることによって、法律への関心が芽生えてくる。この試験の合格後、資格を他にも狙おうと思っていなかったのだが、何かのきっかけ、特に実家に帰省した時に母親と大喧嘩して(新車を購入する際に揉めはじめ)、なんだか知らんが「見てろや」と思ったこと、また例のごとくキヨスクで一緒に仕事をしていた同世代の女性社員に、やはりというかだんだんと親しくなるにつれ思いが募ったものの、もうその方には彼がいたのを知り、失恋など、「悔しさ」というキーワードをもとに、その気持ちのベクトルが再び資格取得に向き始める(その方とは友人としてその後もたびたびあって、「自分は友人がいる。もう一人じゃないんだなあ。と思うことでアルバイトも順調であったが」。


その際、「就職には宅建を持っていると有利」ということを知り、また不動産、自分の住んでいるアパートの契約の賃貸借契約もどうなっているのか知らず(状況時から父親名義で借りて住んでいたので)、また法律を学ぶ上の登竜門として宅建、と言われていたので、ターゲットを宅地建物取引主任者に定める。


当時、よほど悔しかったのか、その受験勉強を始めたのが夏の6月下旬。4か月後に試験があるので、ある意味「超短期間」であったものの、これも一回でパス。今でも「悔しさ」のベクトルを良い方向へ転化させるとすごい力を生み出すことを今でも振り返ってみると感じる(若さというのもあるが。これが今悔しさを感じても当時のように転化しにくいと感じてしまう…)。


そして、さらにその勢いを持続させたく、「資格」に興味を持った際に、旅行業務取引主任者以外に興味を持った、でも自分には無理だろうな、と思っていた資格、これが「社会保険労務士」である。

地獄を見るなら、一気に見てやろう

社会保険労務士は労働・社会保険のスペシャリストとして専門家の一つであることと、大学時に学んだ心理学が少しかかわってくる(産業心理学やマズローの欲求段階説など)こともあり、労働・社会保険って何?と思っていた自分に今後社会に出るために知識をつけるために、そして心理学とかかわっていたこともあって、この資格を狙うことになる。ただ、当初合格率が10%を毎年切っているので、難関資格であることに自分には縁のない資格だな、と思っていたが、宅建が合格したのを機に、その勢いで勉強することになる。しかも、その当時は大学3年次の秋であったので、これから就職活動の準備をする必要がある時期に入りつつあったが、「社労士(社会保険労務士の略称)試験と就職活動。両方とも地獄なら、同じ時期に地獄を一気に見てやろう」という今であれば無茶なことをすることになった。


 無茶といえば余談だが、大学2年次の冬。ちょうど2000年の「ミレニアム」ということで、「踊るあほうなら踊らな損損」という勝手な思い込みで海外に行ったこともないのに、海外へ、しかも一人で10日間ほどフランス、フィンランドに一人旅に行ってきた。まして、フランス語、フィンランド語どころか、英語もまともにできやしないのに、人間関係がだんだんうまくいき始めたことが人生のトンネルを抜けることができた勢いで無茶してきた。その結果、当初の目的であったオーロラを見ることができたので、この経験も自分の自信の回復につながったのだろうと思う。


 話は、大学3年次に戻り社労士試験勉強をしながら就職活動がスタート。しかし、就職活動は面接を受けさせて頂けた10社について10連敗。しかも、宅建がアドバンテージとなると考えられた不動産業界にまったく採用されず。しかし、そこでめげること多少あったものの、社会勉強としていろいろな会社を訪問するのが楽しくなり、宅建の受験勉強の頃からキヨスクのアルバイトを一時辞め、50~60社結果的に回ることになった。就職活動で知り合う他大学の方々と出会うことも、また一つの楽しみ。人に話しかけることが全くできなかった大学入学の頃がうそのように、就職活動での説明会や面接などで、積極的に声をかけることができ、仲良くなった方もいる。今でも、つながりがある方もいる。おそらく、就職活動をしている学生は誰もが不安で、だからこそ、声をかけると不安を語り合う仲間ができやすいのかなと思う。以前は自分だけが生きていくことに不安で、ほかの方は不安がないから、自分から声をかけることができないのだ、と思い込んでいたが、同じ気持ちを共有することができるのではと思い、声をかけることができたのだろうと思う。


 あと、ひきこもりの頃から太ってしまい自分の外見に非常に自信がなかったトンネル時代の自分と比較し、その後、キヨスクの女性に片思いをするころから、痩せることに意識が向くようになり、最大104キロあった体重が60キロを切ることができた。これも自分の自信を回復させることができた経験でもあり、これが外見を気にしなくなったために、声を自分からかけられるようになったのだろうと思う。今はその時と同様、人間関係の構築に悩むことなく、自分から声はかけられるものの、それ以上(104)の体重になってしまったが…

そこで、ようやく5月頃から内定を打診されることになるが、その中の一つが、人生のターニングポイントとなった帝国ホテルであった。

就職活動は片が付いた。あとは社労士試験へ向けて

2001年の6月、帝国ホテルの総合職の内々定者の集まりがあった。聞けば皆、有名大学の方ばかり。私なんかがこんな中にいていいのだろうか、と当時思ったものだ。しかし、話をすると皆気さくで、皆仲良くやっていこう!という気持ちを持っており、私のような者であってもその輪の中にすんなり入ることができた。その後すぐに意気投合し、すぐに次ぎあう機会を次々と作るなど、だんだんと人となりもわかり、仲良くなることができた。今でもちょくちょく機会を設けては(段々生活環境の変化に伴い、会う機会は減ってきているものの)気軽に会うことができる仲間たちだ。


 就職活動と並行して行っていた社労士試験の勉強も、この仲間と会うことがよい気分転換となり、また自分の人との接し方にも自信を持つことができるようになってきたと思う。その社労士試験であったが、試験一か月半まで、科目の一つである「労働保険徴収法」や「厚生年金保険法」にまったく手を付けることができてなかった。しかし、苦手意識はあったもののこれを克服しなければ合格はできないと思い、がむしゃらに頑張った。「労働保険徴収法」は嫌だなと思ってまったく手を付けていなかったが、いざ手を付けると面白さに気づき、得点源に変えることができた。


 そして、いざ試験。試験は8月下旬の日曜日朝から夕方まで行われる。試験を終え、会場出口あたりに、資格専門学校の業者が速報を渡し、自己採点した結果、昨年基準で考えると不合格になることに。落ち込んでしまい、数日間何もやる気が出なかった。また、受験前、試験が不合格であったら、中学生以来の坊主頭にしようとけじめとして考えていたので、「もう不合格だ」と思い込み、結果発表を待たず、試験数日後には坊主頭にしていた。


 そのため、大学の仲間や、帝国ホテル内定者には非常に驚かれ、帝国ホテルの人事の方には「坊主頭のホテルマンなんていないから、入社の頃には伸ばしとけよ」と言われた。


 11月上旬には、社会保険労務士の試験の発表。どうせ不合格と分かっているけれど、やはり、もう一度正式な発表して確認したい。と思い、発表当日のホームページを拝見し、確認したところ、自分の受験番号が合格発表に載っていた。

 信じられず、深夜にもかかわらず両親にも報告。この合格の経験が、自分自身に自信を持てる力となったのは今でも記憶に残っている。


 こうして、社会保険労務士の資格を得る道を歩むことが可能になり、大学も卒業。社会人として旅立つことになる。



社会人編

不安だった入社後の集団生活

大学卒業後、晴れて帝国ホテルで社会人生活をデビュー。総合職の同期とは入社前から、バーベキューやスキー、飲み会などちょくちょく会っていることもあってか、誰もかれも初めて会わなくてはならない、という不安はなかったものの、新社会人としての緊張、そして4月下旬から派遣される長野の景勝地にある、上高地帝国ホテルでの勤務のための訓練、そして上高地帝国ホテル勤務中の集団生活には不安があった。


今はどうか存じないのだが、帝国ホテルに入社するものの中で、当時「総合職(いわゆる幹部候補を予定として採用される者)」は、入社したのちに上高地帝国ホテルでの勤務を必須となっていたようであり、自分自身も入社してそれを念頭に置いていた。ただ、長野のホテルに勤務するのではなく、上高地という「閉ざされた場所」にいるということに不安を覚えた。つまり、街中ではなく山の中なので、日が落ちる頃から日が上がるまでは閉鎖され、日常とはまた違った別世界にいること、そして、住込みの寮がホテルの近くにあり、上高地帝国ホテルで勤務する者は、その住込みの寮とホテルの往復だけの日々を多く過ごすことになる。


いくら学生時代に人間関係の構築する感覚を少しずつ感じ始めたとはいえ、住込みの寮にずっといることに耐えられるかと思うと、やはり不安であった。寮の部屋は2人一部屋であったので、プライバシーもほぼないものであった。つまり、「濃い人間関係の構築」を求められることについて、「俺、大丈夫か?」とおもった。


その不安に拍車をかけるように、ホテルの業務に関わることに段々と自信がなくなっていった。1週間の新入社員研修後に配属が言い渡され、私は「客室担当」を言い渡された。客室担当とはハウスキーパーの仕事であり、例えば、客室のベッドメイク、床を掃除機できれいに、浴槽・トイレの清掃、客室備品の整備、ごみなどの処分などお客さまの客室を清掃し、快適に過ごしてもらうことの業務である。


その客室業務、正直私には向いていないのではないかと新入社員研修後の、実務研修で感じていた。不器用すぎるぐらい不器用、また自分の部屋の掃除も好きでない私にとっては毎日が先輩から怒られる日々が始まった。「ベッドのシーツがしっかり張れていない、よれよれ。やり直し!」、「バスルームに髪の毛1本残っていた。しっかり清掃してよ」などなど言われる毎日。ちなみに、この客室担当、私を含め同期3人が新人として入ったのだが、群を抜いて私が足引っ張っているのは言うまでもないというくらい、ほかの同期と差がありすぎて、だんだんと自信なくなっていくのを感じた。


だからと言って、昔の私のようにすぐめげるわけにはいかない。同期と入社前に仲良くなれたのに、リタイアなんてしたら逃げばかりの人生だ。


4月下旬になり、上高地の開山に合わせて(上高地はゴールデンウィークスタートに開山し、11月上旬に閉山する。その理由は、山のため(標高1500m)雪深い世界に入るためだ。雪山を登るハイカーを除いては)我々新入社員を含めた上高地に派遣される社員は上高地の生活を始めることになる。いきなりその上高地帝国ホテルの実戦デビュー時期がゴールデンウィークスタート時に重なるため、いきなり多忙な日々、そして社会人の洗礼を受けることになる。相変わらず足を引っ張る私。それでも、業務から離れると同期や同じ客室担当の上司や先輩と交流することが多く、その中では仕事のミスなどの話はあまり出ず(同期同士だと仕事のつらさの愚痴大会になることもあるが…)、上高地の生活を楽しもうという雰囲気に満ち溢れていたので、非常にやりやすく過ごせたと思う。休日になれば、同期同士で上高地を離れ、松本や高山、乗鞍や白骨温泉などに出向き、また美ヶ原高原、長野市や大町、白川郷にも行くこともできた。これはとても有意義な日々を送れたと思う。


毎日、うまくできない自分であり、怒られることやつらいなあと思ったことも多々あったが、一日一歩のように段々と仕事に慣れていくことができ、3か月勤務の終わりの頃には、大分ましに業務をこなすことができるようになり、先輩にもほめられることもあり、山を離れる(これを「下山」という)頃には、充実した期間を送れたなあ、と感慨深かったものであった。

私の社会人のあり方を築いてくれた「不動産事業部」時代

平成14年入社の同期の総合職16人は全員上高地勤務となったが、私が「一抜け」となった。最初は「私の勤務っぷりがあまりにも酷くて、足を引っ張るから上高地を離れるんだ」などとネガティブ思考で思っていたのだが、実は私がその後配属される部署にて、海外派遣される方がおり、その後釜として宅地建物取引主任者資格を保有している私に白羽の矢が当たったそうなのだ。その為、同期の中で一番早く下山することになった私。


上高地勤務中に次の配属先を言われたのが「不動産事業部」。最初は「へえー、人事の異動って、こんな感じで行われるんだ」などと変なところの興味津々で聞いていたのだが、改めてこのことを聞いて最初は「不動産事業部」って何?と思ったものだ。だって、ホテルに入ったのに、不動産って、どういうこと?と。


当初は、やはり社会保険労務士の資格を活かして、非常に関連のある人事部に行ければなあ、とおぼろげに思っていたのだが、まさか「宅建」の資格がここで見られるとは、と思ったものだ(その後、2か月後にあとから下山した同期の一人が人事部配属になったときは、正直うらやましく思ったものだ)。


下山し、会社にあいさつし、そして不動産事業部に出向いてあいさつし、2週間の休暇を経過した後に、不動産事業部での勤務が始まった。


最初は「お客さん」的扱いを受け、いろいろと資料を見たりするなど、「こんな風で大丈夫かな」と思っていた。なぜなら、上高地に行く前に、いきなり実践研修を受け、OJT勤務をいきなり開始したため、いろいろ慌てふためいていたことに対して、不動産事業部では「ゆっくり覚えていけばいいよ」、「この決裁書のタイプ、やってみる?」という感じ(OFF-JTのような)であったので、拍子抜けした部分もあった。そのときは、契約社員の方も2人入社し、そのうちの1人があまりにも仕事を上手くこなせていなかったため、それもあり、「手慣らし期間」であった。ただ、2・3か月経ったころから、本格的な業務に携わることになった。


業務の内容は帝国ホテルの建物に入居している賃貸テナントの管理業務。一度、帝国ホテルに行った方はイメージしやすいのだが、あの建物中に、オフィスゾーンがあり、そのオフィスを賃貸しているテナント(事務所)も対象、またアーケードゾーンやプラザといわれる商業施設ゾーンに入所している様々なブティックも対象、そして、鮨や中国料理、和食料理のレストランも対象であった。


段々と業務にかかわることによって、段々とその業務の困難な部分にもぶち当たり始めるようになった。訳もわからないうちにいつの間にか様々な方と名刺を交換し、様々な業務が進む。当時、私は学生時代よりは人付き合いができるようにはなったものの、現在のように社交的な姿勢もあまりなかったので、不思議な感覚ではあった。そして、仕事が段々困難に思えるようになったのは、テナントの入居の打ち合わせなどでの「施設・設備関連」のことが全く分からず自分の仕事に支障をきたし始めてきた。施設・設備関連の知識は一切なかった、逆に言えば関心のない分野でもあったので、頭にその関連の知識が入らない。そのため、連携すべき施設担当の方やテナント側で依頼している設計業者・工事業者に迷惑をかけまくってしまった。


また、仕事の進め方についても「それでよいのかどうか」の試行錯誤の日々であった。キヨスクなどのアルバイトで経験したように「課されていることをやることをやればいい」ということでは済まず、「いろいろ考えて仕事をしなければならない。つまり指示待ち人間になってはまずい」という考え方のチェンジに非常に苦労した。


しかし、様々な方との出会いがたくさんあり、これはホテル事業に関わっていた同期とはまた異なった世界を体験できたことはうれしかった。様々な方はもちろんのこと、様々な会社との繋がりを感じることができたこと、多種多様な業界を知ることは、その後、現在の社会保険労務士業での顧問先との関係構築にも多大な影響をもたらした。そして、帝国ホテルでは客室担当時代と不動産事業部時代合わせ3年7か月勤務することにより、社会人としての礎を築くことができたことは自信になった。この時期のプライベートも非常に充実していて、今振り返ると「学生時代に、引きこもり時代に自分の命を絶つことも常々考えていたけれども、経たずにいたことによって、これほどまでの人間関係に恵まれることができたんだなあ」と思う。

社会保険労務士の世界へ

帝国ホテルでの勤務も試行錯誤しながらも何とかこなしていたが、大学4年次に取得した社会保険労務士の資格も活かした仕事をしたいと考えていた。社会保険労務士の実務経験がもちろんないため、入社後の上高地勤務中は通信で、勤務を終えた休みの間には会場で事務指定講習を済ませ、2002年10月に「その他登録の社会保険労務士」で登録した。通常登録するケースとしては、開業するための開業社会保険労務士、企業人事や社会保険労務士事務所で勤務する(自身で開業しない形で)勤務社会保険労務士があるが、私の場合は帝国ホテルの人事部勤務でなかったので、その他登録で行った。登録したのは、社会保険労務士としての感覚を忘れないため(実務経験はその時ないのですが…)。よって、有給休暇(一日まるまるであったり、半日であったり)を取得して、当時住んでいた県の会に入会したため、神奈川県社会保険労務士会の研修に行ったりしていた。また、自分の名刺には配属先に関連する資格、宅地建物取引主任者の資格は載っていたのだが、社会保険労務士の資格は関連性がないため載っていなかった。ただ、自分自身としては「載せたいなあ」と思っていたものだ。


ここ数年では「七五三現象」というものがある。学校を卒業後、入社3年未満でやめてしまうものが、中卒では7割、高卒では5割、大卒では3割という現象を七五三と当てはめて挙げられるものである。私自身も「すぐに辞めるなんて」と思い続けたため、「石の上にも3年」ということわざがあるため、3年以上勤務したが、4年目に入った時に自分勝手に「3年経験して社会人の基礎は吸収できたかな」と思ったのもあり、社会保険労務士の仕事にも携わってみたいという思いが、帝国ホテルで総合職のキャリアビジョンを描いた考えよりも勝ってきた。


そして、ハローワークで出ていた求人をもとに、東京都板橋区にある社会保険労務士事務所へ転職することになった。社会保険手続きなどは未経験だったが、雇って頂くことができた。


入社した頃、紀宮様(黒田清子さん)の結婚式が帝国ホテルで行われていたため、事務所内でも、私の古巣がそこであったのもあり、話題には出ていて、話のネタにはなったのだが、話題作りに一つなってよかった気持ちもあり、反面「私はそこから離れたのだなあ…」という寂しさも感じたものだ。


社会保険労務士事務所に転職したものの、メインの業務になる社会保険手続や給与計算は未経験のど素人。どんなに資格を持っていても、実務経験がなければただの人であったので、事務所スタッフの方の補助作業として、いろいろな手ほどきを受けながら、実務作業についた。本格的に担当を持ったのが翌年の3月。結婚および出産のため退職される方の後釜として、外資系IT企業の担当となった。その会社の在籍人数が1000名近くおるため、しばらくの間はその会社の「専属」として社会保険手続、給与計算などを担当した。その会社は労務部門のいわばアウトソーサーの活用を事務所にすべてお任せしている形であったので、その外資系IT企業の社員との質疑についてもメールを通じてすべて質疑のやり取りをし、また手続きに関する郵送物のやり取りも直接社員の方と行うスタイルであった。


最初は慣れないこともあり、色々とミスをしてしまったり、またわからないことがたくさんあったので、事務所の同僚の方にアドバイスをいただいたりして何とかこなしてきた。


当初は顧問先の担当されている方は、あまり私に言うことはなかったのだが、段々と苦言を呈することが多くなってきた。私自身もその苦言を受けることで、自信をつける前に、自信喪失になることが多くなってきた。また、社会保険の手続きと給与計算業務の繰り返しの日々が続いた。社会保険労務士を志す人の志す理由として「様々な労務知識・社会保険の知識、そしてそれにまつわる法律や判例などを頭に叩き込んで、就業規則などのルールブックの作成や、労務や年金のコンサルティングをしたい」というものがよくある。私自身もそのような憧れが正直あった。最初は、社会保険労務士業務として社会保険手続業務、給与計算業務などをまずマスターすることが基本と思い、またこのような事務作業はあまり苦ではなかったので、やりがいを持てたものの、段々と顧問先であるIT会社の担当を任されて時が経つにつれ、社会保険手続・給与業務以外の業務にも携わりたい!という思いが強くなっていた。しかしながら、現実は社会保険手続・給与業務に追われる日々で、ほかの「自分が憧れている業務」に携わる余裕と時間もなく、まして細かなミスで顧問先からの指摘に対応することで時が経ていった。


ついには1年10か月その顧問先を担当したのちに、顧問先から担当の変更の申し出が出てきた。自分自身としては「解放された」と思うことと同時に「ああ、自分はダメだったんだ」と思うアンビバレントな気持ちを抱くことになった。


これ以降、その顧問先の「メイン」の担当としては外れ、「裏方」としてその顧問先とは直接やり取りはしないものの、裏方として社会保険手続や給与計算に携わることになった。


今まで、帝国ホテル不動産事業部時代は、常に担当を持たされ、色々な打ち合わせをしたり、多くの人との出会いがあったこともあり、その後の転職した後もメイン担当として顧問先を持っていた日々を業務で送っていたが、そのメインが一つもない状況に陥ったその時は、「心にぽっかりと穴が開いた」状態であった。ここから少しずつであるが、精神的にもよい方向に考えることができなくなりつつあり、メンタルクリニックにも通院することになっていた。


ただ、この経験は、社会保険手続・給与業務関していろいろ学べた、仕組がわかったということで今でも活かされていると思う。

「流浪の旅」の始まり

メイン担当を持たず、事務所のサポートの役割を中心に業務をこなす日々が始まったとき、ストレスは以前よりは感じられなかったことはあるものの、自分より後に入った方にどんどん仕事を任されている状況を察知すると、自分の存在意義を見出すことがより困難になっていった。おそらく今振り返ると、相当なプライドが自分に合ったのだろうと思う。ただ、そのプライドも砕かれていったこと、そしてサポート役ならサポート役でそのやりがいを見出すべきだったところを、自分自身で見出すことができなかったことがまずかったのだろうと思う。


そのような中、心の「ぽっかりと穴が開いた」その穴を埋めようとしたのか、社会人大学院へ興味を持つようになった。


以前にも社会保険労務士事務所に転職1年後、今後のキャリアを考えたときに、もともと心理学に興味があって臨床心理学科に入ったこと、また社会保険労務士業務と非常に関連するメンタルヘルスを勉強しなおしたい・強みを持ちたい、と考え、「産業カウンセラー」の資格取得をするため6か月ほど研修を受けて、試験を受け合格した。また、その延長として「キャリア・コンサルタント」の資格も研修を受け、試験合格した。その際、資格を取るという大前提があって研修に参加したのもあるが、同じ志を持った多種多様な方との出会いが、非常に刺激になった。老若男女、長年の社会人経験をお持ちの方もいらっしゃれば、まだ学生、しかも心理学関連でない学部に在籍の方などもいらっしゃって、驚きを覚えたのを今でも覚えている。この研修で出会った方との交流が、自分自身の生きがいの一つにもなり、支えになった。


その経験もあって社会人大学院をいろいろ調べた結果、青山学院大学大学院の人事・労務プログラムに入学することになった。ここでも、様々な方との出会いがあり業務に様々な良い方向への影響をもたらしてくれた。


しかし、本業の社会保険労務士業はやりがいを見出すこともできず、仕事に情熱を持って臨むことができなくなりつつあった。この思いが強くなったこと、そして現状打破ということで「転職」を考えるようになった。


前回の社会保険労務士事務所への転職では「ハローワーク」を中心とした活動であったが、この時の活動方法は「ハローワーク」に頼らずに、「人材紹介会社」の登録・紹介を中心に、かつ社会保険労務士事務所ではなく、企業の人事・労務部門への転職を狙いとして活動した。前回の活動がハローワーク中心であった反動からか、希望する職種の仕事に一つでもアプローチできるならと思い、20社以上の人材紹介会社への登録をした。どの案件が、どの紹介会社からかこんがらがりそうになる時もあったが、しっかり管理をしてチャンスは逃すまい、と活動していた。


数か月、暑い夏の期間活動した結果、10月に和服の小売店を経営する会社から内定をいただき、その会社に入社することになった。


社会保険労務士事務所に在籍していたのは2年と10か月、3年在籍できていなかったのは、個人的に残念であったが、上場している会社ともともと個人事務所がベースであった事務所との規模の違いをはじめ、仕事の仕方、流れなどの違いなど様々なことを経験できたことはよかったと思う。そして労務業務の礎を築けたのもよかった。

流浪の旅の行き着く末に

転職後の和服販売店では1年間勤務した。久しぶりに事務所とは違う「企業」の雰囲気に懐かしさを覚えつつ、今まで培ってきた社会保険手続業務、給与業務を中心にできるところから携わるようになった。その後、オンラインゲームを運営する企業の人事業に携わった。しかし、この2社を通じて「自分の思うような、考えるやり方の仕事ができなくなっている」、「会社が私の求めてくるものと自分がやってみたい仕事のギャップがだんだん広がってくる」、そしてしまいには「どのように仕事をしたらよいかわからない」という、どん詰まりのネガティブ思考に支配されるようになり、オンラインゲームの会社は3か月で退職してしまった。そして、その悩みが爆発したのか、自分自身の喪失を感じ、何もしたくなくなってしまった。会社を辞めるまでは、前述したように時々メンタルクリニックに通っていたが、会社を辞めた後は本格的にメンタルクリニックに通うようになった。


投薬治療をしつつ、しばらくは何もしない日々が続いた。「私は仕事のできない無能な人間なのか。もともと、中学も行くのが嫌だったし、高校も中退した人間だから、しょせんこんなもんか、俺は」と自分で自分を貶めるような日々が続いた。


会社を辞め、療養生活が2か月経った後、季節は冬から春になった。毎年春はどこかの桜を見に出かけるものであった。その慣習から体が疼き始めたのか、「ちょっとドライブしてみようかな」と思い、一念発起、箱根、伊豆へドライブしてみた。一日で埼玉から南へドライブするものだから体力が持つだろうか、という不安もあったものの、もともとドライブが好きな私、昔取った杵柄ではないが、結構運転しても疲れないものだな、と思った。


そして箱根や、伊豆で見た桜を時間かけて観賞し、「本当に花ってきれいだな、美しいな」と改めて感じたものであった。久しぶりに遠出したことで、さらなる感動があったのだろう。そして、高校中退後の引きこもり経験したのちに、東京へ出てきて、出てきて3日目のある秋の日にバスに乗るためのバス停で待っていた時に、向かいを見るとやや広めの畑とその先にある夕暮れ時の太陽を見て、「ああ、久々に外に出たけれど、なんだかわからないけどいいなあ…」と思ったころを思い出していた。


10代半ばで人間関係や学業などに疲れて引きこもったこと、そしてこの時の30代前半で仕事に悩み、疲れ、鬱の症状がしばらく続いたこと、同じだなあ…。だけど、あの時、10代半ばも再起できたじゃないか、人生のリスタートを出発できたじゃないか。そう考えれば、今も第二の人生のリスタートとして出発すればいいじゃないか。と考えられるようになってきた。そして、ようやく活動しよう!と思えるようになった。

開業への決意

オンラインゲーム運営の会社を辞めて約7か月、会計事務所に勤務することになった。会計事務所と言っても、税務コンサルなどをするのではなく、新規に立ち上げる社会保険労務士事業の担当として雇用された。ここでは2年間勤務したが、酸いも甘いもいろいろ経験させて頂いた。大きな経験としてはセミナーの講師を経験できたことであると思う。講師経験はなく、人前で話すことは得意と言えなかったため、この経験があったからこそ、今の講師としての仕事ができるようになったと思う。ただ、このセミナーの仕事、最初は顧客にとって物珍しかったのか、多くの方がセミナーにいらっしゃったのだが、段々とセミナーに出向く方がいらっしゃらなくなった。自分自身が慣れていないのもあったが、自分のセミナーがつまらないものだと思われる、特に事務所の同僚に思われるのは癪だなと思い始めた。そこで、外部修行でないが、とある機関の主催の就職者支援訓練などで、自発的に仕事を見つけてきて、就職に関連する講座の講師を担当するようになった。だが、あまり事務所としてはその行動をよしとしていただけなかった。


また、いろいろ自分の持っている資格、社会保険労務士以外にも、キャリア・コンサルタント、産業カウンセラー、衛生工学衛生管理者などを幅広く生かして、様々面での活躍をできればと思っていたのだが、それもよしとしていただけなかった。


となってくると、だんだんと自分のやっていきたい業務と、事務所が私へ求めているタスクとの間のギャップが生じ始めた。その軋轢から、「この事務所でも、自分よりも先輩の社会保険労務士の方がいらっしゃればその方から学ぶことができるが、自分よりも先輩の社会保険労務士の方がいらっしゃらず、自分で自分の力によっていろいろ調べたり、確認したりしてきた。もう、社会保険労務士業務においては教えを乞うこともなく、自分の遣りたい、可能性が制約されるのならば自分で開業してしまうことも一つの方法だ」と考えるようになった。


もともと、社会保険労務士の資格を取得した大学4年生時はこの資格を活かして独立するつもりは全くなく、「この資格の業務で生活できれば、やってもらえれば」と思っていた。それは社会人時代に入ってもその考えは変わらなかった。社会人になって実際に雇用保険・社会保険の被保険者となることによって、会社からの保険料負担がある、離職時や年金受給時期になった時は自営業より有利である、けがや病気の時は「傷病手当金」制度がある、ということを経験して、なおさら独立する気が起こる気がなかった。


だが、自分自身の「自己実現」を一歩でも感じられる生き方としては、この時、自分で開業しようという気持ちが芽生えた。「まだ、30代。もう30代ととらえることもできるが、まだ だが、自分自身の「自己実現」を一歩でも感じられる生き方としては、この時、自分で開業しようという気持ちが芽生えた。「まだ、30代。もう30代ととらえることもできるが、まだ30代と考えて、万が一やり直すチャンスもあるし、これが最後のチャンスとも両方のいいところを考えてやってみよう!」と思い、2年間の会計事務所の勤務を経て、2012年9月3日に「荒木キャリア・労務研究所」を開設した。

開業して1年経って

開業直前は「高校生就職ガイダンス」などのキャリア・就職講師業、またその冬にもその事業の講師として担当させて頂いたが、なかなかうまくいかなかったことも多々あった。もちろん、今までのサラリーマンのように安定した給与水準でお金が入ってくることもなく、貯金や両親からの支援も受けつつ、また試験監督などのアルバイトをしながらしのぐこともある。しかし、開業してからの新たな出会いもあり、どんどん新たな仕事に携わることもあって、刺激的な日々を遅れていると思う。


今の社会保険労務士業務、キャリア・コンサルタント業務、講師業など今携わっている仕事は自分にとって天職であると日々思える。これが、昔、中学生から求めていた「生きている実感」を得られているものと思える。

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